2021-07-11② 安城市東海道沿いの寺社を巡る
~あらすじ~
ハスのある本證寺は安城市の南端にあったが、
ランチにそうめんを食べテンションが上がってしまい
安城市の北端にある寺社に行きたくなってしまう・・・
行ってきました。
《目次》
永安寺 雲竜の松
低い位置でマツの太い幹が三方へぐわっと広がっていて、非常に迫力があります!
全景を写真に納めるのが苦労するぐらい立派なマツである。
この辺りの地域、江戸時代刈谷藩の領地だったんですねえ。
「村の庄屋・柴田助太夫氏の犠牲によって、
人々の暮らしが幕末まで助けられた」というエピソードが載っています。
助太夫氏の旧宅跡にあるのがこの永安寺です。
その助太夫氏の時代から在るマツだと思うと有り難さが更に増しますね。
無人のようでした。
お寺自体はこぢんまりとしています。
なお、本堂に向かう途中でクモの巣に引っかかったりしました。
マイナースポットなのかもしれませんが、
樹の迫力と、手入れの行き届いた枝振りは一見の価値があると思います。
明治川神社
雲竜の松のある永安寺のすぐ近くに
立派な神社があり、そちらにもお邪魔しました。
綺麗で厳かな雰囲気。
池の水の音も聞こえてくる。
水に縁の深い三柱の神を中心に、明治用水開削の功労者四人をまつっています。
〔明治川神社|安城市観光協会 より〕
こちらは「蓑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメント。
言われてみればそう見えてきて少し感動。
このモニュメントから池の水が湧いています。
明治用水について
都築弥厚は、明和2年(1765)和泉村(現在の安城市和泉町)に生まれました。
当時、安城市域の多くでは、水が乏しく水田開発が困難でした。
そこで弥厚は、矢作川の上流から水を引き、ここに灌漑、開墾することを思い立ちます。
彼は石川喜平とともに水路の測量を行い、具体的な用水計画を立案します。しかし、農民や領主たちからの激しい反対にあい、計画を実現できぬまま亡くなってしまいます。
弥厚の計画は、明治時代になり、岡本兵松と伊豫田与八郎の2人が引き継ぎます。
そして、明治13年(1880)には現在の明治用水ができ、弥厚の夢がようやく実を結ぶのです。その後安城は、日本デンマークと呼ばれる豊かな農業地域へと、変貌を遂げていくことになります。
〔安城市/安城歴史の散歩道 より引用〕
その功労者を神としてお祀りしているのが明治川神社です。
前編、本證寺の周りでとてつもなく広い田園風景を見て
「さすが農業の得意な安城」と思いましたが、
それも明治用水なくして有り得なかった風景なのではないでしょうか。
明治用水や水の大切さを学べるスポットは市内に他にも多数あるので
追々訪問していきたいところです。
北城屋(きたしろや)
北城屋さんは安城を代表する和菓子専門店です!
安城みやげはここに来れば困らない充実のラインナップのお店。
駐車場からお店の方見たらこんな感じの福助さんが9人いた。
こちらの方が何だか居たたまれなくなる。
色々おみやげに買って帰りました。
こちらは安城名物のおっぱいまんじゅう「べっぴんじゃん」です。
《食レポ》
- クリーミーでもちもちのプリンのような中身が、ふわふわの皮に包まれています
- まんじゅうというより大福って感じでしょうか
- 冷蔵庫で冷やして食べるのでひんやりしてておいしい
- あんこは入っておりません
- 感触はふにふにで、手で摘んで食べると楽しい
「商品開発の過程でうっかり形状がおっぱいに似ちゃったのかな?」と思いきや、
始めから胸をテーマとしている生菓子です。
おっぱいまんじゅう べっぴんじゃん
三河地方の方言で美しい女性のことを「べっぴんじゃん」と言います。
心の美しい女性が「べっぴんじゃん」との思いから、心の上にある胸を形にしました。〔御菓子司 北城屋 HP より引用〕
「安城一番(あんことお餅入りのもなか)」も北城屋さんのメジャーどころですが、
他にもたくさん魅力的な商品が並んでいます。
安城っておいしいおみやげまで充実していて侮れませんね。
本日のマンホール
安城市のマンホールです!
「本日の」とか言ってますが例の如く撮影は2014年と2015年です。
左(←):デンパーク内で撮影。
右(→):新美南吉作「花のき村と盗人たち」の一コマ。
作中の「花のき村」は安城市花ノ木町が舞台とされています。
「花のき村の人々がみな心の善い人々」と作中にあるのも良い。
安城のマンホール、他にも柄があり
今回の旅の途中でも見かけたのですが撮影できず。
またの機会にコレクションできたらいいなと思っております。
それでは次回の更新をお楽しみに。
2021-07-11① 安城市本證寺のハスを見る
安城市にある「本證寺」は、
戦国時代に三河一向一揆の中心となった"三河三か寺"のうちの一つ。
家康公の家臣が寺内の兵糧米を徴収したことが発端となり、一向宗寺院が不入権の侵害を訴え、家康公に反発したために起こった。
家康公の主従の関係と信仰の間で揺れ動く家臣たちが、約半年にわたり敵・味方に分かれ争う凄まじい戦いであったが、三河統一の鍵となった。〔岡崎市公式観光サイトより引用〕
この歴史ある本證寺のお堀、
かつてはハスの花が綺麗に咲き誇っていましたが、
1994年を最後に消えてしまいました。
しかし、そのハスの花を近年になって地元の有志の方々が復活させています。
今回はそのハスを見てきました。
《目次》
本證寺(ほんしょうじ)
到着
看板に載っている写真のようには撮れませんでした!!
なお、この日境内では「きょうえんいち」というマルシェが開催中。
検温や手の消毒を済ませて境内へ。
本堂
本堂の中にもハスの花が持ち込まれていて神秘的。
コーヒータイム
マルシェ名の「きょうえんいち」は、
本證寺の開祖の「慶円(きょうえん)」さんから来ているようです。
「饗宴」や「共演」も連想させるいいネーミングですね。
あまりにも暑かったので「ハンチ珈琲焙煎所」さんのアイスコーヒーを飲みながら
境内のハスを眺める。
注文した直後にその場で豆を挽いて淹れてくれるという贅沢さが最高。
西尾市の珈琲屋さんのようです。
(本證寺は安城市ですが、西尾市に近いエリアにある)
裏手のハス
途中すれ違ったおばちゃん達が
「裏手のハスが一番咲いてたね」と言っていたので
そちらも見に行く。
道中の景色。見切れている左の方にも田んぼが一面に広がっている。
広い。さすが農業が得意な安城。
こんもりしてるのは野寺八幡社という神社の鎮守の森のようです。
お堀の辺より花が多め。
お寺の脇から裏の道をぐるっと歩いていく必要があるため
穴場みたいになっていました。
もし今後見に行かれる方はこちらのハスもお見逃しなく。
境内の案内
本證寺は「城郭寺院」と呼ばれる構造をしていて(安城市HPより)、
お堀や建物にお城のようなかっこよさがあります。
地図を見ると外堀もほんのちょっと残ってるみたいですね。
また訪れた際には外堀の痕跡を探してみるのも楽しそうだと思いました。
丈山の里 いずみ庵
ランチタイム!!
黒豚と夏野菜のごまだれそうめん
(メニュー名がうろ覚えなんですけどこんな感じだった気がする)
安城市の和泉地区はそうめんの名産地です。
江戸時代より伝わる伝統技法「半生もどし」を用いています。
いずみ庵さんは安城名物の和泉そうめんやうどんが楽しめるお食事処。
メニューが充実していてそばまである。抜かりない。
【和泉そうめんの技法】
夏、暑い日差しで乾燥させ、
夕方頃から吹く三河湾の湿った南東の風で「半生」の状態に戻す。※他の産地では冬場に吹く乾いた風で乾燥させる技法が多い。
〔参考→和泉そうめん(安城和泉手延べめん)の歴史〕
和泉手延長そうめんを作る時期は「夏」というのがポイントのようです。
安城市へお出かけの際には名物のそうめんをぜひどうぞ。
この日、帰ったら旅ゴメがちょうど安城市の回をやっていて
和泉そうめんの製麺所である「間杉手延製麺所」さんが出ていました。
HPの解説がとても分かりやすかったので一緒に貼っておきます。
栄養チャージをして、午後も安城の寺社を巡りました。
そちらは後編にてまとめようと思います。
次回をお楽しみに。
2021-05-02 激風!ツインアーチ138
今回は宣言通りゆる~く花の写真を載っけるだけの回にします。
花の名前を忘れかけたり等かなりポンコツです。
《目次》
いざ出陣
友人さんのお車にてやってきました「138タワーパーク」!
愛知県一宮市にあります。
ツインアーチ138は「いちのみや」の名前にちなみ138mの高さ。
曇天にもほどがある。たまに雨降ってた。
この日 風強くてめちゃくちゃ寒かったです。
ツインアーチ138に昇る!
そう言えばツインアーチ、今年になってリニューアル工事してましたよね。
チケットの形式や券売機の位置が変わっていました。
改札にチケットのQRコードをかざすと入場できるタイプになってた。
まあ前がどんなんだったかあまり覚えてないんですが…
ゆいレールとか飛行機乗る時みたいでちょっとわくわくしました。
あと、券売機で電子マネー使えるようになってて便利。
高所恐怖症の友人さん、
「せっかくなので」と頑張って一緒に昇ってくれました。
ちなみに「階段で昇る」というイベントもやってたみたいですが寒すぎて断念。
エレベーターで昇りました。
昇った
リニューアル後の展望台は国産木材を用いた空間になってました。
写真がなくてすみません(´・ω・`)
↑ こちらにリニューアルの詳細が載っています
タワーの解説
リニューアル前に撮った案内なんですが
分かりやすいので載せさせて頂きます。
なお、セントルイスの「ゲート・ウェイ・アーチ」と
「ツインアーチ138」は 姉妹タワー!初耳。
〔施設紹介 - 138タワーパーク | 国営木曽三川公園〕*1
展望階からの風景
小牧山の左手前にある巨大なマンション?がどこなのかずっと気になってるんですが、
違う場所にある同じような色のマンションが
たまたま一直線上に並んでて巨大に見えるだけなのかもしれない。
なお、暴風すぎて展望階自体がずっと「ゆら~っ」と揺れてて震えました。
高所恐怖症の友人は柱にくっついたまま離れられないぐらいだった。
(初登頂だったのに怖がらせて申し訳ない気持ちに…)
花を見る
地上に降りて公園内の花を愛でることにした。
ネモフィラ
ポピー
リナリア (ヒメキンギョソウ)
アグロステンマ (ムギセンノウ/ムギナデシコ)
アグロステンマさん、かわいい花なのに
どうしてこうも覚えにくい名前をしてるんでしょうか。
どこで区切るんだろう、アグロスなテンマなんだろうか?
《ちょっと調べました》
ギリシャ語でアグロ(野原)、ステンマ(王冠)という意味らしい。
公園を後にし、パスタ・デ・ココでお昼ご飯食べて帰りました。
一宮と言えばココイチですもんね。本社があるよ。
本日のマンホール
マンホールのコーナーが結構好評で嬉しい。
今回は一宮市のマンホールです。
中央:市章。真清田神社の神宝「五鈴鏡」がモチーフ
周り:キキョウ(市の花)
こちらのデザインは1991年に市制70周年を記念して製作されたもの。
一宮 市の花 市の木について
昭和46年(1971)
市の木が「クロガネモチ」に決定
昭和49年(1974)
市の花が「キキョウ」に決定
平成17年(2005)
一宮市・尾西市・木曽川町が合併し「一宮市」となる
平成18年(2006)
市の花「キキョウ」、市の木「ハナミズキ」に決定
合併後、市民投票で新たに市のシンボルを決め直したそう。
市の花はキキョウが再度選ばれています。
キキョウは星形の花がかわいいので
七夕まつりで有名な一宮によく似合うと思います。
キキョウを市区町村の花にしている所は
県内だと他に守山区だけな気がするので珍しさの点でも良いですよね。
それでは次回の更新をお楽しみに。
*1:「モニュメント」の項目より
2021-04-30 日本最古の眼科は超硬派?反魂塚と明眼院を訪ねる②[完]
↓ 前回
今回の目的地は
海部郡大治町(あまぐんおおはるちょう)にある「明眼院」です。
明眼院(みょうげんいん)は日本最古の眼科治療院です!
一体どんな所なんでしょうか。
《目次》
大治町役場
あま市と旧甚目寺町のマンホールで楽しんだ地点から
徒歩20分ほどで大治町役場に到着。
大治町の概略
明治22年10月1日に12か村(現在の大字)が合併して、大治村が誕生。
それ以降一度の合併も行われず、
昭和50年4月1日に町制を施行して今日に至る。
〔大治町HPより〕
案内板にある地区(大字)を数えると確かに12あります。
明治時代の村の区分が今もなお受け継がれる町、それが大治である。
大治町役場や明眼院は「馬島(まじま)」にあります。
馬島の地名について
「馬島」、今となってはマイナーな地名ですが
お隣あま市の甚目寺観音 南大門の前にある
道標(安政三年/1856年)にも名前が刻まれています。
↓「左 さ屋まじまみち」
※間島=馬島
昔は「馬島ね!あの立派な眼科のお寺があるところ!」と
結構 有名な地名だったんじゃないでしょうか。
明眼院所有 宝篋印塔
石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)は、
中近世において全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられた石塔である。名前の由来にもなっている、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めるための塔として鎌倉時代中期に成立した。
この経典は、写経・読経し、塔に納めて供養することで功徳が得られることを説く。
ただし中世の石造宝篋印塔に経を納めた例は限られており、用途に限らず、一定の特徴を持つ形を指して「宝篋印塔」と呼ぶ。〔名古屋市博物館HPより引用 - 石造宝篋印塔|名古屋市博物館〕
南北朝時代のものと推測される石塔だそうです。
「へ~」と思いながら撮りましたが、周りに墓石がたくさんありますね。。
町役場のすぐ隣に物々しい史跡がある町、大治。
馬島社
明眼院の西側にある神社です。
階段を上った先にあるお社の石柱に「白山社」とあり、
尾張名所図会「馬島明眼院」の一部にも描かれています。
なお、尾張名所図会の「馬島明眼院」のイラスト、
4ページにもわたって記載されています。
当時めちゃくちゃ広かったんですね。
明眼院 (みょうげんいん) - 海部郡大治町
日本最古の眼科治療院として、全国にその名をはせていました。
千年以上前に創建され、室町時代に清眼法師が眼科治療を開始し、
次々と患者を救い、その評判は遠くまで響き渡りました。画家の円山応挙も治療に訪れたとされ、
お礼に描いたと言われる襖絵がある明眼院書院は現在、
東京国立博物館に移築されています。〔2009 町勢要覧|大治町ホームページ P5-6より引用〕
仁王像
かっこいいー!!
道が開けた途端にババンとあるので「来てよかった!」と思うインパクト。
平安から鎌倉期の作品と推測されるものだそうです。
とても立派でかっこいいんですが、少し傷みが気になりました。
上に屋根は付いていますが心配になってしまいます。
大治町は小さな町なので管理が大変なのだろうとは思うのですが…
境内の様子
右の通路を進んだ奥にある白い建物が本堂。
本堂は鉄筋コンクリートです。
昭和52年(1977)12月に以前の本堂は解体され
現在の本堂が再建されたそう。
理由は下記の通り。
本堂は、幸いにして濃尾震災には倒壊を免れたが、
年を経過するとともに破損がめだち、
特に伊勢湾台風以後、雨もりがひどく、
瓦の一部も落下して危険な状態となっていた (略)
〔大治町史 P595 より〕
多宝塔
国の登録有形文化財。平成26年(2014)認定。
〔大治町HP および 愛知の公式観光ガイドAichiNowより〕
建立期日は不詳であるが、室町時代の建築と推定されている。
慶安二年(一六四九)、院主円慶法印の時代に修覆されたが、
濃尾震災のときに大破したので、以後、一階のみに修築された。その完全の姿は、『尾張名所図会』に描かれているように、以前は二層であった。
〔大治町史 P594 より引用〕
この表札、多宝塔の解説かと思いきや
多宝塔内に安置されている大日如来坐像(通常非公開)の解説でした。
いつか拝観したい。
お庭の紫蘭(シラン)
かわいい。
境内には様々な花が植わっていて、
四季折々違った表情が楽しめるようです。
ところで、実家の紫蘭もかわいかったので載せていいですか?
GWぐらいの時期になると至る所にさりげなく咲いていますよね。
なお、七宝焼の制作工程では紫蘭から採れる成分で作ったのりを使用するそう。
かわいいだけじゃないところがまた良い。
眼科っぽいものが見当たらない
見当たらないんですよコレが・・・
「日本最古の眼科治療院」という前情報がなければ
何も知らずに帰ってしまいそうなくらいにない。
尾張名所図会でブチ抜き4ページも使って描かれていたあの寺院はいずこへ。
如何にして明眼院は今の姿になったのか?
大治町史の明眼院の項目〔P566~〕を読んだので、
明眼院の栄枯盛衰をざっくり説明させて頂きます。
延暦21年(802) - 平安時代
五太山*1安養寺という名で創始。宗派は天台宗。
元弘・建武の乱 - 鎌倉末期~南北朝時代
兵火によりほとんどが灰燼に。*2
延文2年(1357) - 南北朝時代
高徳の僧「清眼僧都(せいげんそうず)」によって本堂や坊舎が再建。
さらに清眼僧都は馬島流眼科を創始。
戦国時代・江戸時代
尾張の首長たちから特別な保護を受ける。
寛永9年(1632) - 江戸時代
後水尾上皇第三皇女の眼病治療というファインプレーによって
「明眼院(みょうげんいん)」の院号を賜り、以後当寺の通称に。
この治療により「明眼院」の名はますます全国に知れ渡る。
明治7年(1874)
医術開業の規則により、正式の眼病治療の廃業を余儀なくされる。
医業の収入が途絶える。
以後、保存が図られたが、広大な寺院の維持が困難となり衰微。
治療法はすべて秘伝とされてきたので地元町民の方々でも
その療法がどのようであったかはほとんど知られていないようであります。〔大治町史 資料編2 「発刊にあたって」より〕
眼科の名残を今の明眼院から見出すことは出来ませんが、
治療法が秘伝だった事の説得力に繋がっている気もします。
目が良くなるご利益はあるの?
わが国の医学の発達は、他の日本文化と同じく中国医学の輸入に始まり、
仏教の救済行為とともに発達していった。わが国の古い寺院の本尊は、例えば法隆寺・薬師寺・興福寺など、薬師如来(医王)が多かったし、源氏物語をはじめ平安朝文学作品には祈祷による治療や呪詛のことがよく書かれている。
こうした、いわば祈祷的な医学から実証的な医学への発達過程において、
実地の医学の先がけとなった最大流派の一つが、この馬島流眼科であったのである。〔大治町史 P577 より〕
「明眼院さんの水で眼を洗うと眼病が治る」といった伝承が残ったりしているが、
馬島流はそのような非科学的なものでなく、
中国などよりの伝来の医学を吸収し、
実地の体験により手術・服薬・灸・食事生活上の療法など
当時としてはあらゆる医療法を駆使してその治療に当ったので
明治以前ではわが国最高の眼病治療の流派となったものでありました。〔大治町史 資料編2 「発刊にあたって」より〕
お寺って、非科学的とも言える仏の教えを広める施設だと思うんですが
そのお寺が実証的な医学にこだわる事で栄えた、
そして医業から撤退した今も
「うちのお寺の水、目に良いですよ」とかそういう
非科学的なセールスをしていないところが味わい深い。
歴史あるお寺なので、
お参りすると目に関するご利益がありますよ!と言われれば
それはそれで説得力ありますし人気出る気もするんですけどね。
観光客を呼び込むためにはなりふり構っていられないこの時代に、
クールすぎて不器用さすら感じるお寺である。
明眼院の良さは一度訪問しただけじゃ分からないものがあるかもしれません。
バスで名駅に向かう
明眼院の南へ少し歩くと「大治役場前」のバス停があるので
そこからバスに乗り大治町を後にしました。
たったの220円(ちょっとうろ覚え)で名駅に行けちゃうんですよ。
バスに乗って間もなく庄内川を渡り名古屋市入りを果たしました。
大治町って、名古屋市に編入されるかどうかで
一時期沸いていた覚えがあるんですが
いつ名古屋市になってもおかしくないくらい近いわ・・・
バスの中から大治町の赤しそ畑を眺めしみじみ感じました。
おまけ:赤しそについて
赤しそは大治町の特産品です。
紫蘇(しそ)の名前の由来は、食中毒で死に瀕している少年に
紫蘇の葉をせんじて飲ませたところ命が蘇ったので、
人を蘇らす紫の葉から紫蘇という名前がついたといわれています。
人を蘇らせると言えば前編のあま市の「反魂香」もありましたが、
ここにも《非科学的なものと現実味のあるもの》の対比を見つけて楽しい。
続・本日のマンホール
今回のメイン海部郡大治町のマンホールです。
真ん中のマーク、町HPによれば
「イメージアップマーク」だそうです
イメージアップマークのいわれ
大治町を流れる庄内川、新川、福田川と大治町のイニシャル「O」。
オーと感じられるようにOを二つ重ねて「発信と交流」をイメージしたもの。
全体の形は、未来に向かって「大きく飛翔する大治町民の姿」を表現している。〔大治町HPより〕
おお…確かにそんな感じに3本の川が流れています。
「シルエットクイズで大治町が出た時に正解できる自信ないな…」
と悩んでたんですが、今回で覚えられそうです!
今回、前編 後編ともにマニアックな内容でしたが、
「花の写真撮りました~」というゆるい回も設ける予定なので
今後ともお付き合い頂けたらと思います。
お読みいただきありがとうございました。
2021-04-30 消えた名所を追え!反魂塚と明眼院を訪ねる①
あま市のフジ回で「続編がある」と申し上げましたが、今回がそれです。
前の記事未読でも大丈夫ですが、その時のも読んで頂けると嬉しいです!
↓ 前のやつ
《目次》
続編のはじめに
尾張名所図会(1844年刊)に載っている、
萱津神社周辺を代表する名物のキーワードが3つあります。
- 阿波手森 (あわでのもり)
- 反魂塚 (はんごんつか)*1
- 藪香物 (やぶにこうのもの)
1と3は先回の記事にて少し触れています。
阿波手森:
萱津神社の鎮座する森のこと。日本武尊の説話が名の由来。
藪香物:
萱津神社は日本で唯一漬物の神を祀る。日本の漬物発祥地という説あり。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の道すがら当社にお立ち寄りの際に、村人がこの漬物を献上して長途の旅情をお慰めするとともに、霊験あらたかなこと等をお話したところ、尊は非常に感慨深げに「藪ニ神物(やぶにこうのもの)」と仰られたと伝えられます。〔萱津神社HPより引用〕
つまり、お新香(おしんこ)とかの「香」は
日本武尊が萱津で言った言葉から来ているという事ですね。結構すごい。
ところで、2の「反魂塚」は前回ノータッチでしたね。
今回調べてみました。
法界門橋(再々)
まずは須ケ口駅から法界門橋へ向かいます。前と一緒の流れです。
「法界門橋」の名の由来は「方違い(ほうたがい)」から来ている説があると以前ご紹介しました。
その説と関係がありそうなカーブと坂道がこちら。
写真だと分かりづらいですが、
道は途中でまたくねくね曲がってから橋に繋がります。
【先回の記事の補足】
現在、あま市側の道路は橋からまっすぐ続いている感じになっていますが、
古地図を確認したところ昔はあま市側(甚目寺側)も曲り道になっていたようです。
今回も、橋を渡ってから南東の萱津神社方面へ向かいます。
反魂塚って何?
ざっくり説明
死者に逢えるというお香「反魂香」を焚いて、
父親が 我が子(故人)に一目だけ逢う事が出来たという伝説が
ここ萱津の里に残っている。
反魂塚とは、その亡くなった子を弔うお墓の事。
かつてその塚が、阿波手森の東にある堤防の下にあったという事が尾張名所図会から分かる。
反魂香(はんごんかう)塚
阿波手の森の東なる堤の下にあり〔尾張名所図会 前編 7巻 [七ノ十] より〕
さらにちょっとだけ詳しく
その伝説も大きく分けて2パターンある。*2
①是廣(父)と光麿(子/7歳) ←七ツ寺縁起に記載
②橋本中将(父)と藤姫(子/16歳) ←正法寺縁起に記載
どちらの説も、
子が旅の途中で萱津の里にて亡くなる
→それを後に知った父が悲しみのあまり寺の和尚にお願いして反魂香を焚いてもらう
→一時的に魂を取り戻した我が子とほんのひと時の再会をする
といった流れが共通している。
また、どちらの説もほぼ同時期なのが興味深い。
①は天応元年(781年)の出来事。
②は藤姫の他界が宝亀十一年(780年)、父と娘の再会が天応元年(781年)。
①の説は名古屋大須にある
「七寺(ななつでら/正式名称: 稲園山正覚院長福寺)」の縁起による。
お香を焚いたのは正覚寺(後の正覚院長福寺)の智光和尚。
寺の所在地は稲沢→清須→名古屋と移されているが、稲沢の前にここ萱津にあったのではないかという説がある。
②の説はあま市萱津神社の近隣にある「正法寺(しょうぼうじ)」の縁起による。
お香を焚いたのは寺の開祖である東岩和尚。
反魂塚のいま
現在、反魂塚のあったであろう周辺は
「あま市上萱津反魂香」という地名になっています。
草が生い茂っていて当時の事は想像しにくいですね。
本町大字上萱津地内五条川堤防をはさんで、外側に阿波手の森萱津神社、川の側に小さな雑木林があり、木立の中に小高い塚と、その塚の上に一基の石碑が立っている。その塚が反魂塚である。 〔甚目寺町史 P101 より〕
塚の面積は約四九五m²。維新後は官有地となったが現在は正法寺に払下げられ、萱津神社の外苑に包含されている。 〔甚目寺町史 P105 より〕
甚目寺町史の発行は昭和50年(1975)。
その当時は塚があったんですね。
2000年9月に起きた東海豪雨と、その後の護岸工事により
反魂塚のあった場所は今の姿になったようです。
ここにも水害の名残が垣間見えて切ない気持ちに…
曹洞宗 正法禅寺 - あま市
川岸の塚の上に建っていた「反魂塚碑」は今どこに?
伝承と縁の深い「正法寺」に手がかりがないかと思いお邪魔しました。
正法禅寺境内の墓地を恐る恐る進むと、
一番奥の高~い場所に移設されているのを発見。
境内の海抜が低く、碑は上を走る道路と同じ高さにあります。
あと、実はすぐ左側に無関係と思しきお墓があるので撮るのに苦労しました。
高い場所にあるので近付いて眺めることは出来ませんが、
今後もなるべく水害の影響を受けないように、という願いが込められているのかも…
反魂塚碑
親おもひ深かりし子の魂を
いまの世人の上に返さむ壹千百五拾稔記念
説話内で反魂香を焚いたのが天応元年(781年)のため、
基準を781年とすれば「壹千百五拾稔(1150年)記念」から
781+1150=1931年 (昭和6年)
となり、その頃に建てられた碑と推測できます。
それにしても、付近に案内板などは見当たらず、
あま市HPで「反魂塚」で検索してもヒット件数ゼロ、
碑の文字も難読でした。*4
反魂香、今の人々からしても「お?」となるようなインパクトのある説話だと思います。
反魂塚はなくなってしまいましたが、忘れ去られて欲しくないので
今後何か対策が取られるといいなと感じました。
本日のマンホール
あま市と旧甚目寺町のマンホールが一緒に撮れるスポットを発見しました。
あま市:ハナミズキとゆり。市の木と市の花。
旧甚目寺町:甚目寺観音(南大門メイン)
テイストがかなり違っていてどちらもいいですねえ。
県道79号(あま愛西線)沿いの坂巻東交差点付近にあります。
道路を拡張する気配を感じたので、
ここで先輩後輩のマンホールが一緒に見れるのも今だけかもしれません。
大治町進出を目論む
あま市の隣に海部郡大治町(あまぐんおおはるちょう)という町があります。
こちらには日本最古の眼科治療院であったお寺があるので
この機に歩いて行ってきました。
という訳で次回に続きます。
今回もお読み頂きありがとうございました。
↓ 5/19 続き書きました
2021-04-27 津島市天王川公園の藤を見る
◎
江南の藤を見たら、
津島の藤も見たくなっちゃうものじゃないですか。
本年怒涛の藤ラッシュシリーズ、この記事で結びです。
《目次》
あまり参考にならない津島市の概要
津島市(つしまし) は愛知県西部に位置する
"海部地区(あまちく)" を代表する市です。
先日から弊ブログでやけに登場している あま市 もこの海部地区の一員です。
津島は言うなればこの海部地区のボスです(個人の意見です)
↑ のような歴史ある水辺のお祭りもあります。
友人様と夜中に津島神社へ初詣に行ったり、
ユネスコ~に登録される前の天王祭でまったりしたりと、
津島は個人的にも思い出深い地です。
今回はあくまで藤メインですが、
津島神社や天王祭についても後ほど少し触れさせて頂きます。
名鉄津島線/尾西線 津島駅
現在も大枠は変わってません。レトロ。
左手前の「津島神社」の看板に「当駅より徒歩10分」と書かれていますが
現在は「徒歩17分」になっています。
(あと看板自体ももうちょっとオシャレになっていました。)
今回計ってみたら確かに17分は妥当な数字でした。
20分くらいはかかります。
津島神社 - 津島市
540年、欽明(きんめい)天皇元年の鎮座と伝えられ、長い歴史を誇る。
全国に3000以上点在する津島神社の総本社でもある。
戦国時代の津島は「尾張の金銀はすべて津島を経由する」と言われ、
尾張最大の商業都市でした。勝幡城を拠点とする織田弾正忠家は津島の経済力を背景に勢力を伸張し、
信秀の頃から主家をしのぐようになりました。〔津島市観光交流センターHPより: 尾張津島天王祭-天王祭と織田信長〕
津島市、現在はレトロな雰囲気の町ですが、
ハチャメチャに栄えるヤベェ都市だったという過去をお持ちです。
織田信長が戦乱の世で大活躍したのは
もはや津島のおかげと言っても過言ではなさそうです。
なお、勝幡城(しょばたじょう)は愛西市と稲沢市の境目辺りにあった城です。
織田信長は勝幡城生まれという説が有力です。
津島神社の社紋と織田家の家紋は同じ「木瓜」ですが、
織田家が津島神社から貰ったという説もあるようです。
上の楼門の写真(夜の方)に社紋が写っていますのでよかったら見てみて下さい。
天王川公園 - 津島市
やってきました天王川公園。
津島神社のすぐ近くですが、藤棚は公園の南の方にあります。
天王祭で祭りの船が出る池の横を進んでいきます。
天王"川"公園と言うだけあり、元々この池は川だったそうです。
今では想像も出来ませんが、天明5年(1785)以前、
津島を南北に天王川という川が流れていました。天王川公園はその河川敷跡を公園にしたものです。
〔これでわかる海部の歴史 P254より引用〕
!?
何か出来てた。
ミスト出てるよ!
しかもこの周辺、人工芝が敷かれててすごく綺麗になってました。
調べたところ、昨年2020年から完成していたらしい。
噴水の稼働開始自体は、昨年の天王祭宵祭の開催予定日だった7/25から。
夏~秋ごろ稼働しているみたいですよ。
藤棚の北側にあります。
津島と藤の関係
天王川公園の藤棚は、
津島市が昭和49年(1974) 4月 市の花に「藤」を制定した事に伴い、
かつて「藤浪の里」といわれた津島の藤の名所を蘇らせるため
昭和53年(1978) より整備されたものです。
津嶋里
古名を藤浪ノ里といふよし諸書に見えたり
今は津島村といふ尾西第一の大邑にして縦横の町並五十餘街商家農工軒を並べ
萬物一として足ざる事なく (略)
津島はかつて「藤浪の里」と呼ばれていた事がここからも分かります。
じゃあそれが載っている「諸書」って何だろう?と
気になりましたが追い切れませんでした(´・ω・`)
追々調べていきたいと思います。
それでは、藤浪の里と呼ばれていた名残を今に伝える
藤を見ていきましょう。
天王川公園の藤を見る
津島の藤、数年前と比べて
美しさに更に磨きがかかってきたような気がします。
2018年頃から行っているという大改修の成果かもしれません。
過密気味だった藤の樹の間隔にゆとりを持たせ、
藤同士で競合しないよう整備し直しているらしい。
江南の藤も以前同じような改修を行ったと聞きますので、
(参照:2021-04-26 藤とツツジ(江南市/一宮市) - #23画録)
藤の世話の大変さをしみじみと感じました。
本日のマンホール
津島市のマンホールです!
天王祭宵祭のまきわら船と 藤が描かれています。
渋くておしゃれですよね…
藤の描き方に優雅さを感じて個人的にとても好きです。
記事を書いている間に藤の季節も終わりさみしく思いますが、
これから他の花も見頃を迎えていきますので
それを楽しみに5月を過ごしていきたいと思います。
次回の更新をお楽しみに。
*1:くずし字初心者です。
間違っている部分がありましたらご指摘下さい。
2021-04-26 藤とツツジ(江南市/一宮市)
🍜
今回は、江南市名物の藤の花がメインです。
先日、下萱津のフジを見て
(参照:2021-04-24 あま市下萱津の藤を見る① - #23画録)、
「藤、もっと見たい…」という欲に負けました。
《目次》
曼陀羅寺公園 - 江南市
江南市(こうなんし)は、愛知県北部に位置する市です。
《曼陀羅寺公園について》
日輪山曼陀羅寺(にちりんざん まんだらじ)は、
後醍醐天皇の勅願(天皇の命令)により創建された寺院です。
昭和41年(1966年)より境内にて「藤まつり」が開催されてきました。
昭和45年(1970年)、江南市は
・曼陀羅寺境内の一部を借り受ける
・藤の管理運営を曼陀羅寺及び同奉賛会から引き継ぐ
上記により、市営「曼陀羅寺公園」として整備することになりました。
その後公園は敷地を広げ、
尾張地方でも一二を争うほどの藤の名所となり今日に至ります。
なお、ふじは江南市の「市の花」に制定されています。
(その他参考:日輪山曼陀羅寺HP 藤の花 - 日輪山曼陀羅寺 )
昨年の様子
2020年は、緊急事態宣言の影響により
曼陀羅寺公園の藤棚の下は立入禁止となっていました。
残念ながら昨年に続いて今年も「こうなん藤まつり」は中止でしたが、
花が見られるだけでも本当に有り難いです。
近くで藤の花を眺められる喜びを噛み締めながら見てきました!
さっそくですが藤です
15:30頃に到着したため夕日の影響を受けた写真が多め。
どの藤も綺麗ですが、白い藤(野田白藤)がほぼ見頃でした!
県内の他の名所と比べると、曼陀羅寺公園は白藤の藤棚も広くて、
たっぷり楽しめるのが特長な気がします。
あと、花がブドウみたいな子は「八重黒竜」という名前です。
私の身内の間では「ブドウ」と呼ばれている。おいしそう。
《曼陀羅寺公園 案内図》
藤の復活
曼陀羅寺公園の藤は一時期、危機に瀕していたことがありました。
1990年代後半から藤の発育が悪化し、観光客も減っていました。
2004年、江南市公園担当の方が、
栃木県の「あしかがフラワーパーク(藤で超有名ですよね)」に直接お願いに行き、
その熱意によって藤再生のためにご協力頂けたそうです。
今となっては調子の悪かった時期があったとは思えないほど
綺麗な花を咲かせています。
藤が不調だった頃の公園しか知らない方も、
今後ぜひ江南の素晴らしい一面を再認識して頂けるといいなと感じました。
それにしても、あしかがフラワーパークの藤の写真を見たら、
何というか…格が違いますね……
ぜひ江南には足利先生のレベルを目指して頑張って欲しいです。
ツツジによる延長戦だよ!
藤を楽しんだあと、
江南のお隣・一宮市にツツジの綺麗な公園があると聞き
そちらにも訪問しました。
《一宮市の概要》
江南と違って(※すみません) 一宮って結構知名度高いと思うので
「説明要るか…?」と思いましたが一応します。
今年2021年9月1日に市制施行100周年を迎える、尾張地方を代表する市です。
同4月1日には「中核市」にグレードアップしました。
お値打ちな金額でおいしいコーヒーと軽食が楽しめる「モーニング」が有名です。
また、一宮市を中心とする地域で生産される「尾州毛織」は
世界三大毛織の一つと言われるほどの高いクオリティを誇ります。
ちょっと前ですが、相棒観てたら高級スーツ店のシーンで
「尾州のウールを使用しております」みたいなセリフが出てきて
嬉しくなっちゃいました。
浅野公園 - 一宮市
戦国時代の武将・浅野長勝や浅野長政の屋敷跡地と伝わる公園です。
秀吉の妻である ねね の養父が浅野長勝、義弟が浅野長政です。
公園駐車場の看板にもツツジのイラストが描かれており、ツツジ推しです。
浅野公園のある浅野地区は「尾張浅野氏」発祥の地で、
忠臣蔵で有名な播州赤穂の浅野内匠頭はその支流とのこと。
なお、今回は車で行きましたが近くにバス停もあります。
ツツジを見る
京都 高台寺:
ねね(北政所)ゆかりの禅寺です。
秀吉の菩提を弔うため北政所が建立しました。
高台寺より寄贈された
● ホンキリシマツツジ
● シロヤブツバキ
が公園内に植えられています。
ツツジについてはオーラが何だか他のツツジたちと違います。
椿の時期にもぜひ訪れたい。
その他見どころ
《太閤千代シダレザクラ》
この2本のシダレザクラは、京都醍醐寺において
豊臣秀吉と寧々が花見の宴で愛でたと伝えられる桜の母樹から、
バイオテクノロジーによって育成されたクローン桜です。寧々にゆかりのある浅野公園の開園100周年を記念して、
醍醐寺の寛仁深い計らいにより、桜苗を授かることができ、
市民に親しまれる公園となるように願って植樹されました。
浅野公園は平成29年に開園100周年を迎えたそうです。(一宮市HPより)
歴史ある公園なんですね。
《 馬蹄石(ばていせき)》
山内一豊が自宅岩倉城へ急用で帰る途中
浅野家に立寄った時の名馬の蹄跡と伝えられている(妻の内助の功により駿馬を買った話は有名である)
近くで見ると、↑ の形に凹んでいます。
しかし、こんな硬そうな石が踏まれただけで
ひづめの形に凹むのを想像するとちょっと面白い。
その辺りも含めて歴史へのロマンを感じました。
《浅野公園 見所マップ》
広くて手入れの行き届いた素敵な公園でした。
強風であまりの寒さに園内全てを巡ることができなかったので
またの機会に訪れたいと思いました!
ツツジのみならず、時期によってさまざまな花が楽しめる公園のようです。
一宮市やっぱすごいなと思った。尾張No.1の称号をあげよう。
なお、帰りにラーメン食べて帰宅しました。
ラーメンの有名店「江南」ではありませんでしたが……
本日のマンホール
江南市のマンホールです!
藤の柄がいい感じですね。
愛知県江南市を今回で初めて知ったという方がもしいらっしゃれば、
藤推しの市ということをぜひ覚えて下さいね!
それでは次回の更新をお楽しみに。