2021-04-30 消えた名所を追え!反魂塚と明眼院を訪ねる①
あま市のフジ回で「続編がある」と申し上げましたが、今回がそれです。
前の記事未読でも大丈夫ですが、その時のも読んで頂けると嬉しいです!
↓ 前のやつ
《目次》
続編のはじめに
尾張名所図会(1844年刊)に載っている、
萱津神社周辺を代表する名物のキーワードが3つあります。
- 阿波手森 (あわでのもり)
- 反魂塚 (はんごんつか)*1
- 藪香物 (やぶにこうのもの)
1と3は先回の記事にて少し触れています。
阿波手森:
萱津神社の鎮座する森のこと。日本武尊の説話が名の由来。
藪香物:
萱津神社は日本で唯一漬物の神を祀る。日本の漬物発祥地という説あり。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の道すがら当社にお立ち寄りの際に、村人がこの漬物を献上して長途の旅情をお慰めするとともに、霊験あらたかなこと等をお話したところ、尊は非常に感慨深げに「藪ニ神物(やぶにこうのもの)」と仰られたと伝えられます。〔萱津神社HPより引用〕
つまり、お新香(おしんこ)とかの「香」は
日本武尊が萱津で言った言葉から来ているという事ですね。結構すごい。
ところで、2の「反魂塚」は前回ノータッチでしたね。
今回調べてみました。
法界門橋(再々)
まずは須ケ口駅から法界門橋へ向かいます。前と一緒の流れです。
「法界門橋」の名の由来は「方違い(ほうたがい)」から来ている説があると以前ご紹介しました。
その説と関係がありそうなカーブと坂道がこちら。
写真だと分かりづらいですが、
道は途中でまたくねくね曲がってから橋に繋がります。
【先回の記事の補足】
現在、あま市側の道路は橋からまっすぐ続いている感じになっていますが、
古地図を確認したところ昔はあま市側(甚目寺側)も曲り道になっていたようです。
今回も、橋を渡ってから南東の萱津神社方面へ向かいます。
反魂塚って何?
ざっくり説明
死者に逢えるというお香「反魂香」を焚いて、
父親が 我が子(故人)に一目だけ逢う事が出来たという伝説が
ここ萱津の里に残っている。
反魂塚とは、その亡くなった子を弔うお墓の事。
かつてその塚が、阿波手森の東にある堤防の下にあったという事が尾張名所図会から分かる。
反魂香(はんごんかう)塚
阿波手の森の東なる堤の下にあり〔尾張名所図会 前編 7巻 [七ノ十] より〕
さらにちょっとだけ詳しく
その伝説も大きく分けて2パターンある。*2
①是廣(父)と光麿(子/7歳) ←七ツ寺縁起に記載
②橋本中将(父)と藤姫(子/16歳) ←正法寺縁起に記載
どちらの説も、
子が旅の途中で萱津の里にて亡くなる
→それを後に知った父が悲しみのあまり寺の和尚にお願いして反魂香を焚いてもらう
→一時的に魂を取り戻した我が子とほんのひと時の再会をする
といった流れが共通している。
また、どちらの説もほぼ同時期なのが興味深い。
①は天応元年(781年)の出来事。
②は藤姫の他界が宝亀十一年(780年)、父と娘の再会が天応元年(781年)。
①の説は名古屋大須にある
「七寺(ななつでら/正式名称: 稲園山正覚院長福寺)」の縁起による。
お香を焚いたのは正覚寺(後の正覚院長福寺)の智光和尚。
寺の所在地は稲沢→清須→名古屋と移されているが、稲沢の前にここ萱津にあったのではないかという説がある。
②の説はあま市萱津神社の近隣にある「正法寺(しょうぼうじ)」の縁起による。
お香を焚いたのは寺の開祖である東岩和尚。
反魂塚のいま
現在、反魂塚のあったであろう周辺は
「あま市上萱津反魂香」という地名になっています。
草が生い茂っていて当時の事は想像しにくいですね。
本町大字上萱津地内五条川堤防をはさんで、外側に阿波手の森萱津神社、川の側に小さな雑木林があり、木立の中に小高い塚と、その塚の上に一基の石碑が立っている。その塚が反魂塚である。 〔甚目寺町史 P101 より〕
塚の面積は約四九五m²。維新後は官有地となったが現在は正法寺に払下げられ、萱津神社の外苑に包含されている。 〔甚目寺町史 P105 より〕
甚目寺町史の発行は昭和50年(1975)。
その当時は塚があったんですね。
2000年9月に起きた東海豪雨と、その後の護岸工事により
反魂塚のあった場所は今の姿になったようです。
ここにも水害の名残が垣間見えて切ない気持ちに…
曹洞宗 正法禅寺 - あま市
川岸の塚の上に建っていた「反魂塚碑」は今どこに?
伝承と縁の深い「正法寺」に手がかりがないかと思いお邪魔しました。
正法禅寺境内の墓地を恐る恐る進むと、
一番奥の高~い場所に移設されているのを発見。
境内の海抜が低く、碑は上を走る道路と同じ高さにあります。
あと、実はすぐ左側に無関係と思しきお墓があるので撮るのに苦労しました。
高い場所にあるので近付いて眺めることは出来ませんが、
今後もなるべく水害の影響を受けないように、という願いが込められているのかも…
反魂塚碑
親おもひ深かりし子の魂を
いまの世人の上に返さむ壹千百五拾稔記念
説話内で反魂香を焚いたのが天応元年(781年)のため、
基準を781年とすれば「壹千百五拾稔(1150年)記念」から
781+1150=1931年 (昭和6年)
となり、その頃に建てられた碑と推測できます。
それにしても、付近に案内板などは見当たらず、
あま市HPで「反魂塚」で検索してもヒット件数ゼロ、
碑の文字も難読でした。*4
反魂香、今の人々からしても「お?」となるようなインパクトのある説話だと思います。
反魂塚はなくなってしまいましたが、忘れ去られて欲しくないので
今後何か対策が取られるといいなと感じました。
本日のマンホール
あま市と旧甚目寺町のマンホールが一緒に撮れるスポットを発見しました。
あま市:ハナミズキとゆり。市の木と市の花。
旧甚目寺町:甚目寺観音(南大門メイン)
テイストがかなり違っていてどちらもいいですねえ。
県道79号(あま愛西線)沿いの坂巻東交差点付近にあります。
道路を拡張する気配を感じたので、
ここで先輩後輩のマンホールが一緒に見れるのも今だけかもしれません。
大治町進出を目論む
あま市の隣に海部郡大治町(あまぐんおおはるちょう)という町があります。
こちらには日本最古の眼科治療院であったお寺があるので
この機に歩いて行ってきました。
という訳で次回に続きます。
今回もお読み頂きありがとうございました。
↓ 5/19 続き書きました