#23画録

愛知県 旅の記録

2021-04-30 日本最古の眼科は超硬派?反魂塚と明眼院を訪ねる②[完]

↓ 前回

今回の目的地は
海部郡大治町(あまぐんおおはるちょう)にある「明眼院」です。

明眼院(みょうげんいん)は日本最古の眼科治療院です!
一体どんな所なんでしょうか。

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《目次》

 

大治町役場

あま市と旧甚目寺町のマンホールで楽しんだ地点から
徒歩20分ほどで大治町役場に到着。

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大治町役場 大治町公民館(右奥)→

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大治町の概略

明治22年10月1日に12か村(現在の大字)が合併して、大治村が誕生。
それ以降一度の合併も行われず
昭和50年4月1日に町制を施行して今日に至る。
大治町HPより〕

案内板にある地区(大字)を数えると確かに12あります。
明治時代の村の区分が今もなお受け継がれる町、それが大治である。

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大治町役場や明眼院は「馬島(まじま)」にあります。

馬島の地名について

「馬島」、今となってはマイナーな地名ですが
お隣あま市甚目寺観音 南大門の前にある
道標(安政三年/1856年)にも名前が刻まれています。

 ↓「左 さ屋まじまみち」

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あま市内の案内板より

※間島=馬島

昔は「馬島ね!あの立派な眼科のお寺があるところ!」と
結構 有名な地名だったんじゃないでしょうか。
 

明眼院所有 宝篋印塔

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奥の建物は大治町役場

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石造宝篋印塔(せきぞうほうきょういんとう)は、
中近世において全国各地で信仰の塔や墓石としてさかんにつくられた石塔である。

名前の由来にもなっている、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めるための塔として鎌倉時代中期に成立した。
この経典は、写経・読経し、塔に納めて供養することで功徳が得られることを説く。
ただし中世の石造宝篋印塔に経を納めた例は限られており、用途に限らず、一定の特徴を持つ形を指して「宝篋印塔」と呼ぶ。

名古屋市博物館HPより引用 - 石造宝篋印塔|名古屋市博物館

南北朝時代のものと推測される石塔だそうです。

「へ~」と思いながら撮りましたが、周りに墓石がたくさんありますね。。
町役場のすぐ隣に物々しい史跡がある町、大治。
 

馬島社

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右の建物は明眼院の多宝塔(後ろ姿)

明眼院の西側にある神社です。

階段を上った先にあるお社の石柱に「白山社」とあり、
尾張名所図会「馬島明眼院」の一部にも描かれています。

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尾張名所図会 前編 7巻より

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なお、尾張名所図会の「馬島明眼院」のイラスト、
4ページにもわたって記載されています。
当時めちゃくちゃ広かったんですね。
 

明眼院 (みょうげんいん) - 海部郡大治町

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日本最古の眼科治療院として、全国にその名をはせていました。

千年以上前に創建され、室町時代に清眼法師が眼科治療を開始し、
次々と患者を救い、その評判は遠くまで響き渡りました。

画家の円山応挙も治療に訪れたとされ、
お礼に描いたと言われる襖絵がある明眼院書院は現在、
東京国立博物館に移築されています。

2009 町勢要覧|大治町ホームページ P5-6より引用〕

仁王像

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かっこいいー!! 

道が開けた途端にババンとあるので「来てよかった!」と思うインパクト。
平安から鎌倉期の作品と推測されるものだそうです。

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とても立派でかっこいいんですが、少し傷みが気になりました。
上に屋根は付いていますが心配になってしまいます。
大治町は小さな町なので管理が大変なのだろうとは思うのですが…

境内の様子

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右の通路を進んだ奥にある白い建物が本堂。
本堂は鉄筋コンクリートです。

昭和52年(1977)12月に以前の本堂は解体され
現在の本堂が再建されたそう。

理由は下記の通り。

本堂は、幸いにして濃尾震災には倒壊を免れたが、
年を経過するとともに破損がめだち、
特に伊勢湾台風以後、雨もりがひどく、
瓦の一部も落下して危険な状態となっていた (略)
大治町史 P595 より〕

多宝塔

国の登録有形文化財平成26年(2014)認定。
大治町HP および 愛知の公式観光ガイドAichiNowより〕

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尾張名所図会 前編 7巻より

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建立期日は不詳であるが、室町時代の建築と推定されている。

慶安二年(一六四九)、院主円慶法印の時代に修覆されたが、
濃尾震災のときに大破したので、以後、一階のみに修築された。

その完全の姿は、『尾張名所図会』に描かれているように、以前は二層であった

大治町史 P594 より引用〕

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多宝塔の右手前にある表札

この表札、多宝塔の解説かと思いきや
多宝塔内に安置されている大日如来坐像(通常非公開)の解説でした。
いつか拝観したい。

お庭の紫蘭(シラン)

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かわいい。

境内には様々な花が植わっていて、
四季折々違った表情が楽しめるようです。

ところで、実家の紫蘭もかわいかったので載せていいですか?

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GWぐらいの時期になると至る所にさりげなく咲いていますよね。

なお、七宝焼の制作工程では紫蘭から採れる成分で作ったのりを使用するそう。
かわいいだけじゃないところがまた良い。

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あま市七宝焼アートヴィレッジにて - 2015年

 

眼科っぽいものが見当たらない

見当たらないんですよコレが・・・

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「日本最古の眼科治療院」という前情報がなければ
何も知らずに帰ってしまいそうなくらいにない。

尾張名所図会でブチ抜き4ページも使って描かれていたあの寺院はいずこへ。
 

如何にして明眼院は今の姿になったのか? 

大治町史の明眼院の項目〔P566~〕を読んだので、
明眼院の栄枯盛衰をざっくり説明させて頂きます。

延暦21年(802) - 平安時代
五太山
*1安養寺という名で創始。宗派は天台宗

元弘・建武の乱 - 鎌倉末期~南北朝時代
兵火によりほとんどが灰燼に。
*2

延文2年(1357) - 南北朝時代
高徳の僧「清眼僧都(せいげんそうず)」によって本堂や坊舎が再建。
さらに清眼僧都は馬島流眼科を創始。

戦国時代・江戸時代
尾張の首長たちから特別な保護を受ける。 

寛永9年(1632) - 江戸時代
後水尾上皇第三皇女の眼病治療というファインプレーによって
「明眼院(みょうげんいん)」の院号を賜り、以後当寺の通称に。
この治療により「明眼院」の名はますます全国に知れ渡る。

明治7年(1874)
医術開業の規則により、正式の眼病治療の廃業を余儀なくされる。
医業の収入が途絶える。

以後、保存が図られたが、広大な寺院の維持が困難となり衰微。

治療法はすべて秘伝とされてきたので地元町民の方々でも
その療法がどのようであったかはほとんど知られていないようであります。

大治町史 資料編2 「発刊にあたって」より〕

 
眼科の名残を今の明眼院から見出すことは出来ませんが、
治療法が秘伝だった事の説得力に繋がっている気もします。
 

目が良くなるご利益はあるの?

わが国の医学の発達は、他の日本文化と同じく中国医学の輸入に始まり、
仏教の救済行為とともに発達していった。

わが国の古い寺院の本尊は、例えば法隆寺薬師寺興福寺など、薬師如来(医王)が多かったし、源氏物語をはじめ平安朝文学作品には祈祷による治療や呪詛のことがよく書かれている。

こうした、いわば祈祷的な医学から実証的な医学への発達過程において、
実地の医学の先がけとなった最大流派の一つが、この馬島流眼科であったのである。

大治町史 P577 より〕

「明眼院さんの水で眼を洗うと眼病が治る」といった伝承が残ったりしているが、
馬島流はそのような非科学的なものでなく、 
中国などよりの伝来の医学を吸収し、
実地の体験により手術・服薬・灸・食事生活上の療法など
当時としてはあらゆる医療法を駆使してその治療に当ったので
明治以前ではわが国最高の眼病治療の流派となったものでありました。

大治町史 資料編2 「発刊にあたって」より〕

お寺って、非科学的とも言える仏の教えを広める施設だと思うんですが
そのお寺が実証的な医学にこだわる事で栄えた、
そして医業から撤退した今も
「うちのお寺の水、目に良いですよ」とかそういう
非科学的なセールスをしていないところが味わい深い。

歴史あるお寺なので、
お参りすると目に関するご利益がありますよ!と言われれば

それはそれで説得力ありますし人気出る気もするんですけどね。

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観光客を呼び込むためにはなりふり構っていられないこの時代に、
クールすぎて不器用さすら感じるお寺である。

明眼院の良さは一度訪問しただけじゃ分からないものがあるかもしれません。
 

バスで名駅に向かう

明眼院の南へ少し歩くと「大治役場前」のバス停があるので
そこからバスに乗り大治町を後にしました。

たったの220円(ちょっとうろ覚え)で名駅に行けちゃうんですよ。
バスに乗って間もなく庄内川を渡り名古屋市入りを果たしました。

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手前:大治町の赤しそ畑。右の橋を渡るとすぐ名古屋市

大治町って、名古屋市編入されるかどうかで
一時期沸いていた覚えがあるんですが

いつ名古屋市になってもおかしくないくらい近いわ・・・

バスの中から大治町の赤しそ畑を眺めしみじみ感じました。

おまけ:赤しそについて

赤しそは大治町の特産品です。

紫蘇(しそ)の名前の由来は、食中毒で死に瀕している少年に
紫蘇の葉をせんじて飲ませたところ命が蘇ったので、
人を蘇らす紫の葉から紫蘇という名前がついたといわれています。

愛知県大治町の特産野菜を知ろう|大治町HP より〕

人を蘇らせると言えば前編のあま市の「反魂香」もありましたが、
ここにも《非科学的なものと現実味のあるもの》の対比を見つけて楽しい。
 

続・本日のマンホール

今回のメイン海部郡大治町のマンホールです。 

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真ん中のマーク、町HPによれば
「イメージアップマーク」だそうです

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イメージアップマークのいわれ

大治町を流れる庄内川、新川、福田川大治町のイニシャル「O」。
オーと感じられるようにOを二つ重ねて「発信と交流」をイメージしたもの。
全体の形は、未来に向かって「大きく飛翔する大治町民の姿」を表現している。

大治町HPより〕

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© OpenStreetMap contributors

おお…確かにそんな感じに3本の川が流れています。

「シルエットクイズで大治町が出た時に正解できる自信ないな…」
と悩んでたんですが、今回で覚えられそうです!
 

今回、前編 後編ともにマニアックな内容でしたが、
「花の写真撮りました~」というゆるい回も設ける予定なので
今後ともお付き合い頂けたらと思います。

お読みいただきありがとうございました。
 

*1:ときに太山

*2:と、縁起に記述がありますが、
縁起というものは信仰の必要上かなり“盛る”ため
史実性には乏しい。